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おもむくまま綴る言葉


by ohisama6262
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命日。②

翌日、朝一で夫と昨日救急車で運ばれた総合病院の産婦人科へ行った。
痛さは激しくなるばかりで、夜はほとんど寝ていなかった。
しかし、昨日の若い研修医が「安静していれば、元気に育つかもしれない」と言っていたことが心の救いだった。
モシカシテ、ダイジョウブ。
そう繰り返し自分に言い聞かせて朝が来るのを待った。
9週にしては小さいぽよ子の写真を握り締め、祈った。

病院の駐車場を入れるのに車が並んでいて時間がかかりそうだったので、
私は車を降り、一人で病院内へ。
「だいじょうぶ?」
顔をあげると病院ボランティアのオバちゃんだった。
私が何で大丈夫と聞かれたのかキョトンとしていると、
「お腹痛いの?」と心配そうにオバちゃんは私を覗き込む。
その時はじめて、私は、お腹を押さえて前かがみで歩いていたのに気づいた。
「妊娠してるんですけど、出血してて・・・、あの、産婦人科どこですか」
オバちゃんは、診察券の機械を私の代わりに操作してくれ、
「辛かったね。連れてってあげるからね」
私の腕を支えて産婦人科まで連れてってくれた。

産婦人科まで行くと、ボランティア介助つきだった私を見て
「日本語、わかりますか?」と外国人用の診察用紙を渡された。
私の外人疑惑はすぐにとけ、ボランティアオバちゃんと別れた。
オバちゃんは、私の手を握って去っていき、手を握られた私は泣きそうになった。
「しっかりしなきゃ」そう自分に言い聞かせ看護士さんに状況を伝える。
夫が産婦人科の待合室に入れずに困っていた。
産婦人科は男子禁制だった。
夫にはロビーで待ってもらうことにして、
私は一人で産婦人科の中へ入った。すぐに順番が呼ばれた。

昨日とは違い、ベテランぽい優しそうな女性医師だった。
ニュースキャスターの桜井よし子を20歳くらい若くした感じだった。
ホッとした。
ことのイキサツをまた話し、内診をした。
「すごい出血ね・・・」
桜井よし子似の医師は、息を呑んでいた。
内診が終わり診察室で話をする。
「よくガマンしたわね」桜井よしこ似医師がウルウルしていた。
そして、次のセリフは「即、入院」だった。

ぽよ子がお腹にいるから、安静にしてた方がいいと言うのだが、
その桜井よし子似の医師は、キッパリと確信に満ちたある答えがありそうだった。
それでも私は、まだ期待していた。
ぽよ子が元気になってくれることを。

夫を呼び出し、すぐに入院の手続きをしてもらった。
車椅子で私は病室に運ばれ、ベッドに横にならされた。
また別の医師に診てもらうことになり、内診を受けた。
今度は、眼鏡のベテラン女性医師だった。
眼鏡医師も「すごい出血ね・・・」と驚いていた。
すぐに、内診が終わった。

病室に戻ると、入院手続きが終わった夫がいた。
ホッとしたのもつかの間、今度は夫婦2人揃って呼び出された。
眼鏡医師が、私たち夫婦にこう聞いた。
「赤ちゃんはお腹にいますが、心臓が止まっていて、大きくなる可能性は0%です。赤ちゃんを取り出さないと母体が危ないので、手術をすることをお勧めしますが、どうしますか?」

ドウシマスカ?と聞かれても困った。
夫婦顔を見合わせた。
ドウシマスカ?と私たちにいかにも選択させますみたいな言い方するけど、
一つの答えしか用意されていないのがわかった。
自分で「手術してください」と言うのは辛かった。
私は何も答えなかった。
夫も同じく。

黙っていると、眼鏡医師がとうとうと喋りだした。
流産は、誰が悪いのでもない、この世に縁のない子なだのだということ。
あなたが悪いわけでは全くないです。全く。
確率でいうと、10人に1人の確率で流産するのです。
ま、そうね、あなた31歳?
30歳超えると、もっと流産の確率あがるから。
それが、たまたまあなたは一人目のお子さんだっただけ。
次妊娠して流産になるかといえば、ならない確率の方が多いですから。

慰められているんだか、いないんだかサッパリわからない確率論をされた。
私は運が悪いだけで、私のせいではないことを言いたいらしかった。
そしてその辛い現実はよくあることなのだと。私だけではないのだと。

妊娠してすぐにインターネットで妊娠生活のことを検索した。
ケイリュウ流産は、まだお腹の子がいるから死んでてもなかなか納得しない母親が多く、母親の気持ちが落ち着くまで手術しないことがあるという知識があった。
必死で眼鏡医師も全く不器用ながら、
私たち夫婦に手術するように気持ちを向けようとしているのかもしれなかった。

でも、その時私は頭が真っ白だった。
その眼鏡医師の話を聞きながら、どうどうと涙を流した。
どうどうと流れ出る涙を拭くことさえも忘れ、どうどうと泣いた。
悲しいのか悲しくないのかもわからず、涙がでた。
もう我慢しようなんて意識もなかった。
何も考えられなかった。

あんまり涙を流す私を見て、
一緒に聞いてた私を担当してくれるオバちゃん看護士も一緒に泣いていた。

どういう経緯で手術することになったのか覚えていない。
夫が言ったのか、私が言ったのかも。

私は夫に手をつながれ、病室に戻ってきていた。
翌日手術することになっていた。
手術前の処理をし、血液検査をした。

夫はオバちゃん看護士に入院に必要なもののメモを渡され、
パジャマやらスリッパやらを取りに家に一度帰った。
私はベッドで生まれて初めて点滴につながれ、ぼう然としていた。
そこへ、オバちゃん看護士が血相を変えて私のところに来た。
「ねぇ、血小板が少ないって言われたことない?あざとかよくできない?傷もすぐに治らないんじゃない?」
質問攻めにされた。それは全てイエスだった。
大学生の時にジュースとお菓子食べ放題に釣られて献血センターで成分献血をしに行った時に「血小板が少ないから、事故に会わないでね」と言われたことがある。
事故に会って出血したら止まらない体質なんだそうだ。

事故に会わないでねって、
「事故に会おうと思って会う人なんかいないよ」と思った記憶が蘇ってきた。
せっかく成分献血したのに、血小板だけ還された。
青あざもよくできるし、傷は治りにくいほうだと言われたことが何度かある。

その看護士さんはさらに10本以上私の血液を抜いていった。
すごく痛かった。
「色々な検査をするからごめんね」とオバちゃん看護士は言い、
「きっと赤ちゃんが、お母さんに血液の病気ですよって、教えてくれたのよ」と続けた。
「もうすぐいなくなっちゃうけど、赤ちゃんとてもいい子ね。えらい子ね」
~お母さん~と初めて言われて嬉しかった。
そして、もう息をしていないぽよ子のことを褒めてくれて嬉しかった。
「ありがとう」ともオバちゃん看護士に言えず、
またどうどうと涙がでた。

眼鏡医師が来て「あなた、血小板が普通の人の4分の1しかないのよ」と言った。
どうやら手術するのにギリギリの数値らしい。
血液内科の先生と連携してがんばるとかいう話にもなり、
手術中に出血がひどかったら、
厚木の血液センターに連絡して飛行機で血液を運んでもらうことになった。
私たち夫婦は手術についての同意書を何枚か書かされた。

夫は私の母にこの事態を話した方がいいと言い出した。
2週間後の結婚式にサプライズの報告をする予定だったので、
本当に誰にも妊娠したことを言ってなかった。
私は「母に言いたくない」と言った。
夫は会社に事情を話して、明日も休みを取ってくれた。
幸い明後日と明々後日は、土日で夫が休みだった。
なんとか明日から3日間は家事をしないで寝ていられる。
手術も夫がいてくれれば、何も望まない。

しかし夫は、4日後のことを考えていた。
4日後から私を一人で家に置いておくのが心配らしかった。
同じ県内に住む母に何かあったら来てもらえたほうが安心だからと私に説得する。
私はまた「いやだ」と言った。
母が精神的な支えになってくれるとは思わなかった。
母は家庭的という言葉とは無縁の人だ。
私の助けになってくれるのかと言えばノーだ。

夫の意見は変わらなかった。
結局、私から母に連絡することにした。
夫一人にこの事態を背負わすことに気がひけたからだ。
母に借りを作りたくないと意地を張っている場合ではない気もした。

妊娠&流産報告を電話ですると、
「あらぁ~!そうなの!残念~ね~」
そう地に足がついていない答えが返ってきて、母らしくて笑ってしまった。
それでも一人娘を思う気持ちは一杯の母なので、明日の手術に飛んでくるという。

面会時間ギリギリまでいた夫は帰っていき、
消灯時間になった。
眠れるはずはない。痛みは最高潮に達していた。
熱が出て、「薬をください」と言ったのに看護士に忘れられた。
オバちゃん看護士はもう帰って別の看護士さんが担当だった。
「痛いよ~、痛いよ~」
個室ではなく相部屋だったので声は出すのは迷惑だと知っていた。
でも小さい声でも「痛いよ~」と呟かずにはいられなかった。
腰をたたいてもさすっても、痛さは変わらない。
もうぽよ子がいなくなる悲しみなんて通り越して、
「早く手術して楽になりたい」
そう思う自分がいるのに気づいて、自己嫌悪に陥った。
でも、痛かった。
痛くて、痛くて、痛くて、悲しくて、死にそうな夜はやっと終わった。
# by ohisama6262 | 2009-08-15 22:21

命日。①

***以下の文章は、2年前、2007年に書いた文章。
ひっそりと鍵をしていました。
このとき、私は、書かずにいられなくて。
だから、長々とものすごく長々と書いたのだと思う。

この時の私は、誰にも慰められたくなかった。
これは、同じ経験しなければわからない種類のことで、
だから、ほんとに誰にもホントの気持ちをぶつけることがなくて、
でも、なんか誰かに聞いて欲しくて、
パソコンのキーボードを叩いていたんだと思う。

今回公開したのは、
心の友にありきたりな言葉を送りたくなかった。
生の辛い経験をわかちあう・・・、違うな、
こんな経験したくなかったよね!バカヤロー!!!って言いたい。

********

一年前の6月18日。
一つの命がこの世から消えた。
ひっそりと、ほとんど誰にも知られずに。

2006年5月。ゴールデンウイークが終わった頃、
生理が遅れていた。
身体が異様にだるく、仕事中も眠くて仕方がない。
「これは、もしや・・・」
心当たりは、ある。
妊娠検査薬をドキドキしながら購入。
検査をすると、ハッキリと陽性を示していた。

「うそ~!!!」
入籍して5ヶ月、式は2ヵ月後に迫っている。
子どもは大好き。できれば三人欲しい。
だけど、正直な話、心の準備ができてなかった。
もう少しだけ2人の時間を楽しみたかった。
「まだ、いらない」陽性検査薬を握り締め泣いた。
三十路を過ぎてなんとも無責任な話だ。
基礎体温までつけていたのに「まだ、いらない」ってどういうことなのか、
自分でもよくわからなかった。

しかし、「産まない」という選択肢は1%もなかった。
0.00001%も。
夫に「新しい命が宿った」と報告すると。
ウッキーポーズでビックリしてたけど、
夫も「産まない」という選択肢は1%もなかった。
0.00001%も。

2ヵ月後の結婚式の時に
パンパカパーン「実は子どもがお腹の中にいまーす!」
そう言って、皆をびっくりさせようね。
それまで、誰にも内緒にしとこうね。
私たち夫婦はウシシとそんな企みをしていた。

近くの産婦人科へ行った。
「妊娠しているのは確かだけど確認できない。一週間後に来なさい」
「子宮外妊娠かもしれないから、お腹痛くなったらすぐ来るように」
よぼよぼ80歳くらいのおじーちゃんの医者は言った。

「お願い赤ちゃん、いて。お腹にちゃんといて元気に育って」
お腹に手を当て、どこにいるかわからない神に願った。

幸い一週間後、赤ちゃんを確認できた。
心臓も動いている。
よかった~。よかったね!私たち夫婦は喜んだ。
お腹の子を「ぽよ子」と名づけた。
私のお腹が「ぽよぽよ」だったから、そう名づけられた。
ぽよ子、よろしくね。
全然ママらしくないけど、パパらしくないけど、よろしくね。
そう、話かけた。

その頃、銀座にある企業で派遣社員として働いていた。
通勤、片道1時間40分。
定時で帰宅できるものの、帰ってから食事の支度や家事が待っている。
夫が帰宅するのは23時すぎ。
当然家事全般、私がやるしかない。
ほとんど手作りの結婚式の準備もある。
自分で言うのもなんだが、頑張り屋さんである。
弱音や文句も吐かず、
「誰にも迷惑かけたくない」と黙々とやるべきことをこなしていた。

5月中旬。
6月いっぱいまでの派遣契約をどうするか決める時期がきた。
契約更新するかしないか。
悩んでいた。
苦労して就いた派遣先だ。
一度保留にした。
ちょうどまだ「ぽよ子」がいるか見えなくて、不安な時期だった。
派遣先に保留の本当の理由を言うのをためらった。
そこで派遣先が痺れを切らす。
派遣会社の営業担当が「みえりさんが保留にしたこと、理由もわからず怒ってます。向こうから契約なしにするって言い始めました」そう焦って電話してきた。

私も覚悟を決めて妊娠していることを派遣先に伝えた。
そう言うと、その日のうちに派遣会社を通して「クビ」と言われた。

正直言って、クビと言われて嬉しかった。
1年以上勤めたけど、「おはよう」と言っても返事が返ってこない会社である。
仕事上以外の話はほとんどせず、
社員も派遣仲間も私に近寄ってこなく、私も近寄らず、いつも一人だった。
仕事と割り切っていたので、それは楽でもあった。
意地悪はされたことはない。仕事はうまくいっていた。
しかし、会社に愛着は一つも湧かない。
そんな状況だったので、派遣先から「クビ」と言われたことは腹立たしいが、
もうこの会社と縁が切れるんだ~♪と思うとスキップしたくなった。

契約終了は6月末。
それまで、淡々と仕事を引き継いでいた、6月中旬。
妊娠9週、3ヶ月目に入ったとこだった。

2・3日前から腰が痛く、体調がよくなかった。
次の定期健診まであと3日。
その時に産婦人科に行けばいいかな。
仕事で平日に行けないしなどと思っていた。
結婚式まで誰にも言わないことにしていたので、
一足先にママになった友達にも相談ができなかった。

仕事中、生理が来たような感触がした。
急いでトイレに行くと出血している。
「ど、どうしよう?!」
産婦人科に電話!
時間は3時30分すぎ。
電話をすると「5時にはウチの産婦人科に着かないんでしょう?医者帰っちゃうから、会社の近くの産婦人科でみてもらって」そう看護士さんに言われる。

すぐ席に戻り、ネットで近くの産婦人科を検索。
電話番号を控え、携帯を持って普段人の来ない階段で電話をする。
なかなか急患を診てくれるとこが見つからない。
やっと見つかった!と思ったら、
「今来ても、2時間待ちですよ~」
私の出血&腹痛の訴えもムナシクそう言われた。

あと1時間ほどで定時。
「わかりました、会社が終わってから行きます」
そう告げて、腹痛に耐えながらなんとか定時まで仕事をしてしまった。

仕事が終わってすぐ夫に電話するとワンコールで出た。
電話嫌いで気を使う私が夫の仕事中に電話をするなんて、
よっぽどのことしかないと思ったのだろう、
第一声目が「どうした?」だった。
出血しているから、会社近くの産婦人科に今から行くと報告して、
産婦人科に向かった。

そこでやっぱり「出血&腹痛」を訴えたが、
きっちり2時間順番を待たされた。
あんまり順番が回ってこないので、夫とメールで何度かやりとりしていた。
「症状訴えてるのに、順番回ってこないということは、
 きっとよくあることで、たいしたことないのかもね」
そういう結論になった。
そうだ、きっとちょっと出血しただけ。そう思い込み言い聞かせた。

順番が回ってきて、診察台に上ると医者が顔をしかめた。
「すごい出血してるね」
内診しながら、カーテン越しに歯切れの悪い医者と妊娠してから今までの経緯を話した。
なんだか悪い予感がした。

医者は意を決するように言った。
「残念ながら赤ちゃんの心臓は止まってます。
 経験上、ケイリュウ流産だと。
 ここは手術できないから、近くの総合病院に明日行きなさい」

呆然とした。
医者の言っていることがよく聞き取れない。

そんな私にさっき診たというぽよ子と同じ9週の赤ちゃんの写真を見せてくれた。
頭と手があり足があり大きかった。
私のは、「まる」でしかない。

その事実を目の当たりにして、
「赤ちゃん死んでしまった」ことがようやくわかったら、
涙が止まらなかった。

最初赤ちゃんが授かった時に喜んであげなかったから?!
どうして?!
無理をして仕事や家事や結婚式の準備をしてしまったから?!
色々な後悔が自分に圧し掛かってきた。

「生理二日目以上の出血があったら、夜間でも病院に行きなさい」
そう医者に言われ、帰された。

帰されても、ここは銀座。
我家はここから1時間40分の、神奈川の田舎。
夫に迎えに来てもらうことも考えたが、
どこで何をして待てばいいのか分からない私は、
いつものように電車に乗って帰ることにした。
早く家に帰りたかった。
お腹が段々痛くなってきて、立っているのもやっとだったが、
疲れたサラリーマンは、私の存在に気づかず眠っている。
誰も気づいてくれない。
自分から席を替わってくださいとも言えない。
泣きたい気持ちを必死でこらえて、ドア近くの手すりにしがみついた。

夫が最寄の駅まで車で迎えに来てくれた。
私が車に乗り込むと、
状況を詳しく知らない夫は、
朝私が乗ってきた駅に止めてある自転車を持ってくればと言った。
私も気を張っていたので、気丈に車に乗ったから、
事態が深刻であると思わなかったようだった。
私が「はぁ?!」という顔を思い切りしたので、
事態を察して夫は、「それどころじゃなかったね、ごめんなさい」と謝った。

事の次第を話すと、
夫は明日仕事休んで一緒に近くの総合病院へ行ってくれると言った。
私は断った。
「大丈夫。一人で行ける。私のために仕事休まなくていいから」
申し訳ないと思った。
仕事で忙しい夫を巻き込むことに心が痛んだ。
大丈夫、いつものように一人でなんとかできる。
昔から、人に頼るのが苦手だった。
人に心を開くのも。
いつも一人でいるような気がしてしょうがなかった。
だから、一人は馴れてる。
一人で耐えられる。
大丈夫。

夫は怒っていた。そんな私に。
「みえりにとって、オレは必要ないんだね」
夫が初めて怒っていた。本気で、心の底から。

そこでその日夫に会って、初めて泣いた。
うえ~ん。うそ、うそ。
ホントは来て欲しいの。
仕事休んでください。
そう、泣きながら頼んだ。

嬉しかった。
私が夫にとって大切な人であると同じように、
夫が私を大事に思っていてくれる。
夫婦ってこういうものなんだ。
そうか~、これからは頼る人がいるんだな。
これからは一人じゃないんだ。

私は「夫婦」というものをよく知らないで育った。
父と母は結婚後すぐに私を授かり、
そして私が生まれてすぐ離婚していた。
「父は死んだ」と育てられ、実際に本当に会ったことがない。
きっと後に別に家庭を作って、いいパパなどしているのかもしれないなぁと思う。
一度もわが子に会いに来ない父。
「なかった」ことになっている私。

私がいなかったら、別の人生があっただろう母。
母はいつもギスギスしていた。
一緒に住んでいる実の母(私の祖母)と毎日ケンカしていて、
家事と育児はほとんどノータッチで仕事ばかりしていた。
負けず嫌いの母。
シングルマザーの風当たりがまだ強い昭和の時代、
色々あったんだろうと想像するが、
子どもの私にとっては「自分が必要ない存在」としか思えなかった。

「私がいなければ」
いつも頭の片隅にあった。
友達はいた。友達が全てだった。
誰かに必要とされる人間になりたいと思った。
でも、努力しても全然誰かの一番は永遠になれない。
友達に順位はつけられないから。
私がそうであるように。
みんな友達に順位はつけない。

「人生疲れた」というのが口癖だった。
もちろん誰もいないとこでの独り言だが。
「あぁ、死にたい」20代前半までそう思わない日はなかった。
思っただけで実行に移したことはない。
ただ想像で何度も何度も死んで、悲しむ誰かを想像してスッキリしただけ。

誰も愛せない気がしていた。
彼氏いない暦29年を更新してしまった。
きっと私は誰も愛することができず、
誰にも愛されないのかもしれない。
「私は何故生まれてきて、その意味は何なんだろう?」
問いかけても答えは出ないまま。
夫に出会った。
会ってすぐに「この人と結婚するなぁ、私」なんだかよくわからないがそう思った。
トントン拍子に話は進み、出会って1年3ヶ月で入籍していた。

この1年9ヶ月幸せだった。
生まれてきて今が一番、幸せ。
しみじみそう思った。
最悪な状況に置かれているというのに、
ひとり布団の中で幸せをかみしめていた。

腹痛が最高潮に達した。
トイレに行くと、生理二日目どころじゃない出血量。
ヤバイ。
キッチンに行き、夕飯の支度をしてくれている夫に伝えた。
「救急車を呼ぼう」という夫。
「え?車出してよ」そう言うと夫は、
「焼酎飲んじゃった・・・」そう答えた。
はぁ?なんで今飲むかなぁ?
夜に病院行くかもって言ったじゃん。信じられない。
そう夫を責めてしまった。
全く、しっかりしてるようで肝心な時にダメなんだからと
ブツブツ心の中でひとりごちた。
「飲まないと、やってられなかった」と言う夫は申し訳なさそうに目をふせた。
そうだよね。ぽよ子がいなくなるかもしれなくて辛いの私だけじゃなかったね。
ごめんね、私だけ大変なフリして。

救急車を呼んだ。
生まれて初めて乗る救急車。
横にいる夫は私の手を握りしめながら、
ヘンな顔百面相をして私を笑わそうとする。
まるで、赤ちゃんをあやすように。

私の痛みや不安を和らげようと必死にしてくれてるのがわかった。
今はそれどころじゃくて、笑えないんですけどと思いながら、涙がでた。
百面相をしてあやす夫が愛おしかった。
アホで不器用で。
そして、自分がとても愛されていて守られている気がした。

なんとか搬送先の病院が見つかって運ばれた。
救急士の人に「もっと病人のふりしてください」と言われた。
私はピンチの時ほど強く、ちゃんと立っていられる。
痛みをこらえ、冷静に自分の症状を医師に伝えた。
医師は若い女性研修医だった。
23時過ぎに呼び出され、迷惑そうに私を見てこう言った。
「救急車で運ばれてくる人は、もっと痛そうですよ」
私が大げさに救急車を使ってきたような口ぶりだった。
「でも、流産て言われて・・・・」そう訴えると
「切迫流産でしょう。まだお腹に赤ちゃんいるし、安静にして様子を見守るしかないですね。入院してもしなくても一緒です。どうします?」
銀座の産婦人科と診断の違いに戸惑った。
安静にして、赤ちゃんが助かるかもしれない光が見えて嬉しかった。
夫と一緒にいたかったので、入院せず帰宅することにした。
# by ohisama6262 | 2009-08-15 22:19

イノリ

いつも周りの、私の、幸せを祈ってくれる友人。
ありがとう。

でもね、私が今はあなたを、あなたの幸せを祈らずにいられない。
たくさんたくさんパワー送るよ。

この月明かりがあなたをぽっと照らしますように。
あたたかい気持ちになれますように。
夏のカラッとした風があなたの頬をなでますように。
涙を拭ってくれますように。
ピカピカの太陽が、あなたを包み込んでくれますように。
さらに最上級の笑顔になりますように。

心の友にささげます。
# by ohisama6262 | 2009-08-12 21:32

2年目もよろしくね

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娘の1歳の誕生日。
「今頃は陣痛が~とか、今頃分娩室に~とか、今頃産まれたなぁ~」とか、
時計を見るたびに、
生々しく思い出せる自分がいて、
そして、産まれたばかりの小さい、小さい娘の手を握り、
「あぁ、産まれたんだ。ほんとに産まれたんだ」と嬉しさを噛み締めながら、
ニヤケた自分がいたことを思い出した。
何度も「うそじゃないよね~」なんて小さくひとりごちながら、
夜中暗い病室にて隣に置いてある新生児ベッドを覗き込んだ。

そんな感動の一夜はすぐ終わり、
「うちの子、寝ないんですけどっ」と顔に青筋作ってアタフタする毎日。
とにかく泣いてオッパイを欲しがった娘。
私のオッパイがでなくて、娘は大変だった。
そして、私もすごくすごく大変だったけど、
泣くばかりだった、途方もなく泣くばかりだった娘も、
1年後の今は、にこにこの笑顔で手押し車を押してだけど歩いている。
きっと、もうすぐ歩けるようになるだろう。

ほんとに、ほんとに、よく元気にここまで大きくなってくれたね。
1年間母ちゃん大変だったけど、
あなたの無邪気な笑顔にどれだけ救われてきたかわからない。

娘の1歳の誕生日。
子どもの誕生日は、親にとってものすごく感動の日、
そして、ものすごくものすごく嬉しい日であることを知った。
よくここまで大きくなったね。
元気で1歳迎えられてよかったね。
子どもの誕生日は、親になった誕生日でもあるんだよね。
親としての自分を振り返る日なのかもしれないなぁ。

母ちゃん、まだまだだけど、
一緒に1年大きくなれたかな。いや、母として成長できたとさせてください。

いよいよ親子2年目。
あなたと一緒に、あなたの目に映る世界はどんなかな。
とても、とても楽しみ。

2年目もよろしくね。
# by ohisama6262 | 2009-08-05 17:52
得るものがあれば、失うものアリ。

最近そのことについてよく考える。

どう生きようと寿命が決まっている人や、
大切な人を亡くした方からはものすごく非難されるかもしれないが、
10代の後半から、「30歳になったら死のう」と決めていた。
自分の寿命を決められないし、決めては生けないことはよく知っている。
でも、ホントに、ホントに、ホントに、生きるのが、
生きていくのが辛くてしょうがなかった。
10代20代は、日々生きていることが奇跡に思えたし、
30歳まで生きることだって、自分を自分で偉いと思っていた。
正直、寿命を決めていたからこそ、人に優しくできた。
自分が死ぬことを考えたら気分が晴れた。
遺書をどう書こうか思いあぐねている時は、それはもう幸せだった。
そんな私がいたからこそ、
ドラマ制作会社のプロデューサーに、「あなたの書きたいことは?」と聞かれて、
「孤独」と即答している自分がいた。

誰も自分の気持ちをわかってくれないし、
今までもこれからもずっと一人、
誰も信じられないし、信じない。自分のことも信じられない。

育ててもらった祖母と母、そしてよくしてくれる友人たちにはホントに申し訳ないけど、
そういう思いで身体の全てが支配されていた。

なんでそんなこと思うんだ。
自分で自分を責める。
でも、やっぱりどうしようもなく独りなのだ。あたしは。

だから、ホントに、私にしか書けないものが沢山あったし、
叫びもあった。
どうしようもないほど、抱えきれない思いが沢山あって、
表現しきれないほど、沢山あって、
日々心の中の押入れをひっそりあけて、わ~って叫んで閉じての繰り返し。
押入れが満杯になると、書いて。
それは、私にしか書けないもので。

だから自分の世界は誰にも踏み込めなく、そして、書くことが楽しくてしょうがなかった。

それが、どうだ。

子を産んでからこっち、このブログがストップしていることがわかるように、
思いを貯めることや、
独りを感じる暇や、
今までひっかかっていたカサカサの部分に躓くことなく、
忙しさにかまけて、自分のド真ん中と向き合うことなく、心と付き合うことなく、日々過ごしている。
過ごしていることに、非常に焦る。

子が育ってから、また、書くだなんて、甘っちょろいことでいいのだろうか?
自分のド真ん中。
どうなっちゃってるの。

得るものあれば、失うものあり。

あたしの中のあたしが消えていく気がしてしょうがない。

でも、人生の中で一番幸せを感じているのも事実。

失うものあれば、得るものあり。
# by ohisama6262 | 2009-05-06 17:39 | つぶやき