翌日、朝一で夫と昨日救急車で運ばれた総合病院の産婦人科へ行った。
痛さは激しくなるばかりで、夜はほとんど寝ていなかった。
しかし、昨日の若い研修医が「安静していれば、元気に育つかもしれない」と言っていたことが心の救いだった。
モシカシテ、ダイジョウブ。
そう繰り返し自分に言い聞かせて朝が来るのを待った。
9週にしては小さいぽよ子の写真を握り締め、祈った。
病院の駐車場を入れるのに車が並んでいて時間がかかりそうだったので、
私は車を降り、一人で病院内へ。
「だいじょうぶ?」
顔をあげると病院ボランティアのオバちゃんだった。
私が何で大丈夫と聞かれたのかキョトンとしていると、
「お腹痛いの?」と心配そうにオバちゃんは私を覗き込む。
その時はじめて、私は、お腹を押さえて前かがみで歩いていたのに気づいた。
「妊娠してるんですけど、出血してて・・・、あの、産婦人科どこですか」
オバちゃんは、診察券の機械を私の代わりに操作してくれ、
「辛かったね。連れてってあげるからね」
私の腕を支えて産婦人科まで連れてってくれた。
産婦人科まで行くと、ボランティア介助つきだった私を見て
「日本語、わかりますか?」と外国人用の診察用紙を渡された。
私の外人疑惑はすぐにとけ、ボランティアオバちゃんと別れた。
オバちゃんは、私の手を握って去っていき、手を握られた私は泣きそうになった。
「しっかりしなきゃ」そう自分に言い聞かせ看護士さんに状況を伝える。
夫が産婦人科の待合室に入れずに困っていた。
産婦人科は男子禁制だった。
夫にはロビーで待ってもらうことにして、
私は一人で産婦人科の中へ入った。すぐに順番が呼ばれた。
昨日とは違い、ベテランぽい優しそうな女性医師だった。
ニュースキャスターの桜井よし子を20歳くらい若くした感じだった。
ホッとした。
ことのイキサツをまた話し、内診をした。
「すごい出血ね・・・」
桜井よし子似の医師は、息を呑んでいた。
内診が終わり診察室で話をする。
「よくガマンしたわね」桜井よしこ似医師がウルウルしていた。
そして、次のセリフは「即、入院」だった。
ぽよ子がお腹にいるから、安静にしてた方がいいと言うのだが、
その桜井よし子似の医師は、キッパリと確信に満ちたある答えがありそうだった。
それでも私は、まだ期待していた。
ぽよ子が元気になってくれることを。
夫を呼び出し、すぐに入院の手続きをしてもらった。
車椅子で私は病室に運ばれ、ベッドに横にならされた。
また別の医師に診てもらうことになり、内診を受けた。
今度は、眼鏡のベテラン女性医師だった。
眼鏡医師も「すごい出血ね・・・」と驚いていた。
すぐに、内診が終わった。
病室に戻ると、入院手続きが終わった夫がいた。
ホッとしたのもつかの間、今度は夫婦2人揃って呼び出された。
眼鏡医師が、私たち夫婦にこう聞いた。
「赤ちゃんはお腹にいますが、心臓が止まっていて、大きくなる可能性は0%です。赤ちゃんを取り出さないと母体が危ないので、手術をすることをお勧めしますが、どうしますか?」
ドウシマスカ?と聞かれても困った。
夫婦顔を見合わせた。
ドウシマスカ?と私たちにいかにも選択させますみたいな言い方するけど、
一つの答えしか用意されていないのがわかった。
自分で「手術してください」と言うのは辛かった。
私は何も答えなかった。
夫も同じく。
黙っていると、眼鏡医師がとうとうと喋りだした。
流産は、誰が悪いのでもない、この世に縁のない子なだのだということ。
あなたが悪いわけでは全くないです。全く。
確率でいうと、10人に1人の確率で流産するのです。
ま、そうね、あなた31歳?
30歳超えると、もっと流産の確率あがるから。
それが、たまたまあなたは一人目のお子さんだっただけ。
次妊娠して流産になるかといえば、ならない確率の方が多いですから。
慰められているんだか、いないんだかサッパリわからない確率論をされた。
私は運が悪いだけで、私のせいではないことを言いたいらしかった。
そしてその辛い現実はよくあることなのだと。私だけではないのだと。
妊娠してすぐにインターネットで妊娠生活のことを検索した。
ケイリュウ流産は、まだお腹の子がいるから死んでてもなかなか納得しない母親が多く、母親の気持ちが落ち着くまで手術しないことがあるという知識があった。
必死で眼鏡医師も全く不器用ながら、
私たち夫婦に手術するように気持ちを向けようとしているのかもしれなかった。
でも、その時私は頭が真っ白だった。
その眼鏡医師の話を聞きながら、どうどうと涙を流した。
どうどうと流れ出る涙を拭くことさえも忘れ、どうどうと泣いた。
悲しいのか悲しくないのかもわからず、涙がでた。
もう我慢しようなんて意識もなかった。
何も考えられなかった。
あんまり涙を流す私を見て、
一緒に聞いてた私を担当してくれるオバちゃん看護士も一緒に泣いていた。
どういう経緯で手術することになったのか覚えていない。
夫が言ったのか、私が言ったのかも。
私は夫に手をつながれ、病室に戻ってきていた。
翌日手術することになっていた。
手術前の処理をし、血液検査をした。
夫はオバちゃん看護士に入院に必要なもののメモを渡され、
パジャマやらスリッパやらを取りに家に一度帰った。
私はベッドで生まれて初めて点滴につながれ、ぼう然としていた。
そこへ、オバちゃん看護士が血相を変えて私のところに来た。
「ねぇ、血小板が少ないって言われたことない?あざとかよくできない?傷もすぐに治らないんじゃない?」
質問攻めにされた。それは全てイエスだった。
大学生の時にジュースとお菓子食べ放題に釣られて献血センターで成分献血をしに行った時に「血小板が少ないから、事故に会わないでね」と言われたことがある。
事故に会って出血したら止まらない体質なんだそうだ。
事故に会わないでねって、
「事故に会おうと思って会う人なんかいないよ」と思った記憶が蘇ってきた。
せっかく成分献血したのに、血小板だけ還された。
青あざもよくできるし、傷は治りにくいほうだと言われたことが何度かある。
その看護士さんはさらに10本以上私の血液を抜いていった。
すごく痛かった。
「色々な検査をするからごめんね」とオバちゃん看護士は言い、
「きっと赤ちゃんが、お母さんに血液の病気ですよって、教えてくれたのよ」と続けた。
「もうすぐいなくなっちゃうけど、赤ちゃんとてもいい子ね。えらい子ね」
~お母さん~と初めて言われて嬉しかった。
そして、もう息をしていないぽよ子のことを褒めてくれて嬉しかった。
「ありがとう」ともオバちゃん看護士に言えず、
またどうどうと涙がでた。
眼鏡医師が来て「あなた、血小板が普通の人の4分の1しかないのよ」と言った。
どうやら手術するのにギリギリの数値らしい。
血液内科の先生と連携してがんばるとかいう話にもなり、
手術中に出血がひどかったら、
厚木の血液センターに連絡して飛行機で血液を運んでもらうことになった。
私たち夫婦は手術についての同意書を何枚か書かされた。
夫は私の母にこの事態を話した方がいいと言い出した。
2週間後の結婚式にサプライズの報告をする予定だったので、
本当に誰にも妊娠したことを言ってなかった。
私は「母に言いたくない」と言った。
夫は会社に事情を話して、明日も休みを取ってくれた。
幸い明後日と明々後日は、土日で夫が休みだった。
なんとか明日から3日間は家事をしないで寝ていられる。
手術も夫がいてくれれば、何も望まない。
しかし夫は、4日後のことを考えていた。
4日後から私を一人で家に置いておくのが心配らしかった。
同じ県内に住む母に何かあったら来てもらえたほうが安心だからと私に説得する。
私はまた「いやだ」と言った。
母が精神的な支えになってくれるとは思わなかった。
母は家庭的という言葉とは無縁の人だ。
私の助けになってくれるのかと言えばノーだ。
夫の意見は変わらなかった。
結局、私から母に連絡することにした。
夫一人にこの事態を背負わすことに気がひけたからだ。
母に借りを作りたくないと意地を張っている場合ではない気もした。
妊娠&流産報告を電話ですると、
「あらぁ~!そうなの!残念~ね~」
そう地に足がついていない答えが返ってきて、母らしくて笑ってしまった。
それでも一人娘を思う気持ちは一杯の母なので、明日の手術に飛んでくるという。
面会時間ギリギリまでいた夫は帰っていき、
消灯時間になった。
眠れるはずはない。痛みは最高潮に達していた。
熱が出て、「薬をください」と言ったのに看護士に忘れられた。
オバちゃん看護士はもう帰って別の看護士さんが担当だった。
「痛いよ~、痛いよ~」
個室ではなく相部屋だったので声は出すのは迷惑だと知っていた。
でも小さい声でも「痛いよ~」と呟かずにはいられなかった。
腰をたたいてもさすっても、痛さは変わらない。
もうぽよ子がいなくなる悲しみなんて通り越して、
「早く手術して楽になりたい」
そう思う自分がいるのに気づいて、自己嫌悪に陥った。
でも、痛かった。
痛くて、痛くて、痛くて、悲しくて、死にそうな夜はやっと終わった。
痛さは激しくなるばかりで、夜はほとんど寝ていなかった。
しかし、昨日の若い研修医が「安静していれば、元気に育つかもしれない」と言っていたことが心の救いだった。
モシカシテ、ダイジョウブ。
そう繰り返し自分に言い聞かせて朝が来るのを待った。
9週にしては小さいぽよ子の写真を握り締め、祈った。
病院の駐車場を入れるのに車が並んでいて時間がかかりそうだったので、
私は車を降り、一人で病院内へ。
「だいじょうぶ?」
顔をあげると病院ボランティアのオバちゃんだった。
私が何で大丈夫と聞かれたのかキョトンとしていると、
「お腹痛いの?」と心配そうにオバちゃんは私を覗き込む。
その時はじめて、私は、お腹を押さえて前かがみで歩いていたのに気づいた。
「妊娠してるんですけど、出血してて・・・、あの、産婦人科どこですか」
オバちゃんは、診察券の機械を私の代わりに操作してくれ、
「辛かったね。連れてってあげるからね」
私の腕を支えて産婦人科まで連れてってくれた。
産婦人科まで行くと、ボランティア介助つきだった私を見て
「日本語、わかりますか?」と外国人用の診察用紙を渡された。
私の外人疑惑はすぐにとけ、ボランティアオバちゃんと別れた。
オバちゃんは、私の手を握って去っていき、手を握られた私は泣きそうになった。
「しっかりしなきゃ」そう自分に言い聞かせ看護士さんに状況を伝える。
夫が産婦人科の待合室に入れずに困っていた。
産婦人科は男子禁制だった。
夫にはロビーで待ってもらうことにして、
私は一人で産婦人科の中へ入った。すぐに順番が呼ばれた。
昨日とは違い、ベテランぽい優しそうな女性医師だった。
ニュースキャスターの桜井よし子を20歳くらい若くした感じだった。
ホッとした。
ことのイキサツをまた話し、内診をした。
「すごい出血ね・・・」
桜井よし子似の医師は、息を呑んでいた。
内診が終わり診察室で話をする。
「よくガマンしたわね」桜井よしこ似医師がウルウルしていた。
そして、次のセリフは「即、入院」だった。
ぽよ子がお腹にいるから、安静にしてた方がいいと言うのだが、
その桜井よし子似の医師は、キッパリと確信に満ちたある答えがありそうだった。
それでも私は、まだ期待していた。
ぽよ子が元気になってくれることを。
夫を呼び出し、すぐに入院の手続きをしてもらった。
車椅子で私は病室に運ばれ、ベッドに横にならされた。
また別の医師に診てもらうことになり、内診を受けた。
今度は、眼鏡のベテラン女性医師だった。
眼鏡医師も「すごい出血ね・・・」と驚いていた。
すぐに、内診が終わった。
病室に戻ると、入院手続きが終わった夫がいた。
ホッとしたのもつかの間、今度は夫婦2人揃って呼び出された。
眼鏡医師が、私たち夫婦にこう聞いた。
「赤ちゃんはお腹にいますが、心臓が止まっていて、大きくなる可能性は0%です。赤ちゃんを取り出さないと母体が危ないので、手術をすることをお勧めしますが、どうしますか?」
ドウシマスカ?と聞かれても困った。
夫婦顔を見合わせた。
ドウシマスカ?と私たちにいかにも選択させますみたいな言い方するけど、
一つの答えしか用意されていないのがわかった。
自分で「手術してください」と言うのは辛かった。
私は何も答えなかった。
夫も同じく。
黙っていると、眼鏡医師がとうとうと喋りだした。
流産は、誰が悪いのでもない、この世に縁のない子なだのだということ。
あなたが悪いわけでは全くないです。全く。
確率でいうと、10人に1人の確率で流産するのです。
ま、そうね、あなた31歳?
30歳超えると、もっと流産の確率あがるから。
それが、たまたまあなたは一人目のお子さんだっただけ。
次妊娠して流産になるかといえば、ならない確率の方が多いですから。
慰められているんだか、いないんだかサッパリわからない確率論をされた。
私は運が悪いだけで、私のせいではないことを言いたいらしかった。
そしてその辛い現実はよくあることなのだと。私だけではないのだと。
妊娠してすぐにインターネットで妊娠生活のことを検索した。
ケイリュウ流産は、まだお腹の子がいるから死んでてもなかなか納得しない母親が多く、母親の気持ちが落ち着くまで手術しないことがあるという知識があった。
必死で眼鏡医師も全く不器用ながら、
私たち夫婦に手術するように気持ちを向けようとしているのかもしれなかった。
でも、その時私は頭が真っ白だった。
その眼鏡医師の話を聞きながら、どうどうと涙を流した。
どうどうと流れ出る涙を拭くことさえも忘れ、どうどうと泣いた。
悲しいのか悲しくないのかもわからず、涙がでた。
もう我慢しようなんて意識もなかった。
何も考えられなかった。
あんまり涙を流す私を見て、
一緒に聞いてた私を担当してくれるオバちゃん看護士も一緒に泣いていた。
どういう経緯で手術することになったのか覚えていない。
夫が言ったのか、私が言ったのかも。
私は夫に手をつながれ、病室に戻ってきていた。
翌日手術することになっていた。
手術前の処理をし、血液検査をした。
夫はオバちゃん看護士に入院に必要なもののメモを渡され、
パジャマやらスリッパやらを取りに家に一度帰った。
私はベッドで生まれて初めて点滴につながれ、ぼう然としていた。
そこへ、オバちゃん看護士が血相を変えて私のところに来た。
「ねぇ、血小板が少ないって言われたことない?あざとかよくできない?傷もすぐに治らないんじゃない?」
質問攻めにされた。それは全てイエスだった。
大学生の時にジュースとお菓子食べ放題に釣られて献血センターで成分献血をしに行った時に「血小板が少ないから、事故に会わないでね」と言われたことがある。
事故に会って出血したら止まらない体質なんだそうだ。
事故に会わないでねって、
「事故に会おうと思って会う人なんかいないよ」と思った記憶が蘇ってきた。
せっかく成分献血したのに、血小板だけ還された。
青あざもよくできるし、傷は治りにくいほうだと言われたことが何度かある。
その看護士さんはさらに10本以上私の血液を抜いていった。
すごく痛かった。
「色々な検査をするからごめんね」とオバちゃん看護士は言い、
「きっと赤ちゃんが、お母さんに血液の病気ですよって、教えてくれたのよ」と続けた。
「もうすぐいなくなっちゃうけど、赤ちゃんとてもいい子ね。えらい子ね」
~お母さん~と初めて言われて嬉しかった。
そして、もう息をしていないぽよ子のことを褒めてくれて嬉しかった。
「ありがとう」ともオバちゃん看護士に言えず、
またどうどうと涙がでた。
眼鏡医師が来て「あなた、血小板が普通の人の4分の1しかないのよ」と言った。
どうやら手術するのにギリギリの数値らしい。
血液内科の先生と連携してがんばるとかいう話にもなり、
手術中に出血がひどかったら、
厚木の血液センターに連絡して飛行機で血液を運んでもらうことになった。
私たち夫婦は手術についての同意書を何枚か書かされた。
夫は私の母にこの事態を話した方がいいと言い出した。
2週間後の結婚式にサプライズの報告をする予定だったので、
本当に誰にも妊娠したことを言ってなかった。
私は「母に言いたくない」と言った。
夫は会社に事情を話して、明日も休みを取ってくれた。
幸い明後日と明々後日は、土日で夫が休みだった。
なんとか明日から3日間は家事をしないで寝ていられる。
手術も夫がいてくれれば、何も望まない。
しかし夫は、4日後のことを考えていた。
4日後から私を一人で家に置いておくのが心配らしかった。
同じ県内に住む母に何かあったら来てもらえたほうが安心だからと私に説得する。
私はまた「いやだ」と言った。
母が精神的な支えになってくれるとは思わなかった。
母は家庭的という言葉とは無縁の人だ。
私の助けになってくれるのかと言えばノーだ。
夫の意見は変わらなかった。
結局、私から母に連絡することにした。
夫一人にこの事態を背負わすことに気がひけたからだ。
母に借りを作りたくないと意地を張っている場合ではない気もした。
妊娠&流産報告を電話ですると、
「あらぁ~!そうなの!残念~ね~」
そう地に足がついていない答えが返ってきて、母らしくて笑ってしまった。
それでも一人娘を思う気持ちは一杯の母なので、明日の手術に飛んでくるという。
面会時間ギリギリまでいた夫は帰っていき、
消灯時間になった。
眠れるはずはない。痛みは最高潮に達していた。
熱が出て、「薬をください」と言ったのに看護士に忘れられた。
オバちゃん看護士はもう帰って別の看護士さんが担当だった。
「痛いよ~、痛いよ~」
個室ではなく相部屋だったので声は出すのは迷惑だと知っていた。
でも小さい声でも「痛いよ~」と呟かずにはいられなかった。
腰をたたいてもさすっても、痛さは変わらない。
もうぽよ子がいなくなる悲しみなんて通り越して、
「早く手術して楽になりたい」
そう思う自分がいるのに気づいて、自己嫌悪に陥った。
でも、痛かった。
痛くて、痛くて、痛くて、悲しくて、死にそうな夜はやっと終わった。
#
by ohisama6262
| 2009-08-15 22:21